92.幕末武家の回想録 柴田宵曲 角川ソフィア文庫 |
p256 長持ちが滅法重い。 大名は「2畳台」といって、畳を二畳もって旅行したものだそうだ。これは宿駅で本陣へ宿ったとき、座敷の畳の上にその2畳を重ねて敷いて寝る。その畳たるや、堅くて堅くて万一悪者があって、床下から槍などで突いても、とうてい突き通すことのできないようこしらえてある。 |
91.アンの青春 シリーズ2作目 モンゴメリ 新潮文庫 |
P294 「まず、あたしの羽根ふとんを古いふとん皮から新しいの へ、移さなくてはならないし。・・・いやなものだから、一日延ばしに延ばしていたのよ・・・。 p299 羽根ふとんの移しかえをしたことのある人なら、言うまでもないが、移し終わったときのアンは見ものだった。服は綿毛で真っ白になるし、ハンカチーフからはみ出した前髪は、羽根飾りで後光のようだった。 1900年のカナダ、自分で羽根ふとんをリホームしていたとは。たまたま見つけた海外のふとんの事情が知れた。 |
90.吾輩は猫である 夏目漱石 新潮文庫 |
p304 机の前には薄っぺらなメリンスの座布団があって、煙草の火で焼けた穴が三つ程かたまってる。中から見える綿は薄黒い。 p358 叔父さんほど、寝坊はないんですから…そうして起こすとぷんぷん怒るのよ。今朝なんかも是非起こせというから、起こしたんでしょう。すると夜具の中へ潜って返事もしないんですもの。こっちは心配だから二度目に又おこすと、夜着の袖から何か言うのよ。本当にあきれ返ってしまうの。 87の本屋風情に登場の南方熊楠も漱石のこの本を読んでいたのかも。 夜着(掻巻)のいたずらを漱石が書き、南方熊楠がまねた。? 楽しい想像だ。 |
89.名ごりの夢 今泉みね 東洋文庫 平凡社 |
p49 奥医師仲間のだれよりも若い父はいつも上様からお愛しいただいて、どういう時にか、父がうたた寝していましたら、そっと御かいまきをおかけさせになったり、・・・・。 そのおかいまきはお駕籠にいれて、下城の時は「下へ下へ」で大得意でしたものの、邸につきました時は、それをおしいただいてお部屋にころがり込むようにして、感極まって暫くは泣いておりましたそうでございます。 徳川の蘭医の話。将軍もかいまき布団を使っていたことがうかがえる。貴重な話だ。 |
88.逝きし世の面影 渡辺京二 平凡社 |
p120 日本人の家には家具らしきものがほとんどないというのは、あらゆる欧米人が上陸後真っ先に気づいた特徴である。・・・家具といえば・・・ 一隅に小さなかまど、夜具を入れる引き戸付きの戸棚、小さな棚の上には・・・小皿がきちんと並べられている。 |
87.本屋風情 原茂雄 角川ソフィヤ文庫 |
p14 明治44年1月柳田先生は田辺に南方熊楠先生を訪ねられた。…俺(南方熊楠)は酒を飲むと目が見えなくなるから、顔を出していたって仕方がない。話ができればそれでいいんだと、いい加減なことをいって、掻巻(かいまき)を頭からかぶり、その袖口から覗いて話をした。奥さんがいかにも困ったというような顔をしていた。ほんとうに変わっていたよ。 和歌山県でも掻巻のふとんを使っていたことが分かった。関西にはないといわれていたのだが。どうも京阪地区だけだったようだ |
86.東京百年物語A ロバートキャンベル編 岩波文庫 |
M百貨店 伊藤整 p242 二人は更に階段を折れて登って二階へでる。子供洋服、子供帽子、夜具、木綿、モスリン、公衆電話あり。女等が品物の間を歩きまわり、引き出し、裏返している。 1931年の三越百貨店の2階の様子。夜具・木綿が商品として並んでいる。戦前の商品群が目を引く、夜具が高級品だった。 |
85.東京百年物語@ ロバートキャンベル編 岩波文庫 |
車上所見 正岡子規 p197 諏訪神社の茶店に腰を休む。日傾き風にわかに寒ければ興尽きて帰る。 三年の月日を寝飽きたるわが褥も車に痛みたる腰を据えうるに ワタのさわりこよなくうれし。世にかいなき身よ。 人力車で外出。帰宅の感想。 |
84.日本永代蔵 井原西鶴 現代語訳 角川学術文庫2020年春 |
p315 大豆一粒から出世して光を放ったお堂の話 この九助は…その後、女の綿仕事はまだるっこく、特に弓で綿を打つ作業は、一日仕事をしてもようやく3s程度しか出来上がらない。ここに工夫はできないものかかと、中国人のやり方を尋ねて、唐弓という道具を日本で初めて作りだした。そして世間には内緒にして、横槌で打ったところ、一日にして約く11sずつ綿が取れたので、雪山のように繰り綿を買い込んで、多くの人を雇い、打ち綿をし、幾丸も江戸に出荷したところ、4〜5年のうちに大分限となり、大和に知らぬ人のない綿商人となった。そして綿問屋が多く集まる平野郷や、大坂の京橋にある、富田屋・銭屋・天王寺屋といったゆうすうの綿問屋などに、毎日何百貫目という限りない量の綿を卸し摂津・河内両国の木綿を買い取って、秋冬のわずかの間に毎年利を得ると、30年余りにして13億円(今の価値で)の身代となった。 |
国立国会図書館デジタルコレクション |
図の左上が綿繰の様子。右上は繰綿を計量している。 馬による輸送の様子。 唐弓については以下の解説がある・ 打綿の弓・・・種子を取り除いた繰り綿を柔らかくする綿打は、竹製の弓に糸を張ったものを用いていたが、江戸初期に木製の弓にクジラの筋を張り横槌で叩く唐弓が中国から長崎にもたらされたという。 綿打ちの作業は糸を取りやすくするため、繊維の方向をそろえるためにするものと思っていた。下のテレビ放送の情報によれば中国では、布団を作るための作業とのこと。 日本でも布団づくりの作業として行われていた可能性が出てきた。 |
大げさな言い方をすれば歴史的な発見 2019年9月見 |
左の写真はBS NHK『2006年世界街歩きの中国紹興市の一場面』 ワタ打ちの作業だ。右は日本の江戸時代の同じ作業の様子。 驚いたことに、日本では昔々に消えた仕事が中国に残っていた。 日本では機械化された作業が中国で見ることができるとは思ってもいなかった。ふとん屋のルーツ。 放送では男の人が「職人として修業した」と誇らしげに語った。 ワタのふとんは中国が発祥で日本に伝わった事が間違いない。 この後どのようにしてふとんにするのかの映像は無かった。取材者に予備知識があれば取材しただろう。誠に残念 |
83.家郷の訓 宮本常一 岩波文庫 |
p17 明治12〜17年頃・・・その頃は竹のすのこで、その上にムシロをしき、寝る時にゴザをしき、身体のうえにドンダ(ぼろ)をかけるかうすい蒲団をかける程度であった。冬分はいろりに火をたき、いろりのそばで、背中をあぶりながらごろりとねたという。 p19 父は百姓する気が無かった。百姓では到底頭があがらぬと思って綿屋になろうとした。そして綿くりや綿打ちをならった。しかしこれが舶来綿がくるようになってたちまち駄目になった。 p25 綿耕作の秋仕事は綿が賃にもらえるのがうれしかった。女の命は着物であった。島は木綿の産地で、今から百年も前にはずいぶん沢山の木綿を出していた。村々には綿屋があって、そこから綿をもらってきて糸にひき機にかけて布に織って行くと賃として綿をくれた。それをためておいて自分の着物も織れば家の人たちの物も織って着せた。 昔、綿屋『わたや』という屋号の家があった。仕事の中身が今まで解らなかった。その仕事の内容が少し明らかになった。 |
82.鏑木清隆随筆集 岩波文庫 |
P220 こおろぎ 私たち男性には、別に冬が来たから、そのために急にしなければならぬ仕事とても無いのだが、家庭の女、殊に昔の女には、暑さに、寒さに向かうごとに、富める者は富めるなり、貧しいものは足らぬがちのなかにも心働きして、裁つべきものは裁ち、縫うものは縫い、綿入れ、ひき解き、綴じ繕いに骨身を惜しまない。 ・・・そうした昔の女は、百年も二百年もの前、私たちの母、祖母、曾祖母、だんだん遡って数えたら、いつの世からだかはかり知られない久しい時代に、紡ぎ、繕い・・・一生を過ごして行った。 この数知れぬ過去の女性に、今の私たちが受けている莫大な恩をどうしたら報いられよう。 |
81.100年前の女の子 船曳由美 講談社 |
群馬県の農村・100年前の女の子の生活 P37 夜は昼間の着物を着たまま、三尺の帯を解いて、一本の細紐でくくりつけ、寝床にもぐりこむだけである。 p203 冬…テイ(主人公)は寒さがよけい身にしみて夜着にもぐり込む p236 女学校が県立になったとたんに銘仙着用が認められた。銘仙は絹織物だが、木綿のように丈夫で、それでいて軽く、つやがあり、ふだん着から晴れ着まで用いられた。 座布団の大きさを表すのに『銘仙判』という言い方がある。この言葉とも関連している。 |
80.下級武士の食日記 青木直己 ちくま文庫 |
p151 共同生活ではお金の管理も大事・・・・そんなことから日記に、ふとん屋への支払いで叔父様にまるめ込まれ、心ならずも損をする。・・ ふとん屋という商売をする者の存在を確認した。 もしかするとレンタルの業者かもしれない。 原文に当たるとふとんについてもう少し文章があるかもしれない。作者は食に関することに注目しているので。 |
79.ノンタン おねしょでしょん |
だれでも子どものころ、おねしょをした経験があるものです。おねしょをしても強くしかったりせず、子どもと一緒に歌でも歌いながら、ふとんをほしてやってください。 そして、夜、お日様のにおいいっぱいのふとん、ふかふかのふとんに子どもがくるまった時、お母さんもいっしょに「今夜はおねしょをしませんように・・・。」と祈ってあげてください。きっと、そのうち、おねしょはしなくなりますよ。 こんなふとんが木綿ワタならではのふとんです。 |
78.田舎教師 田山花袋 初版本 |
P22 小使いは室の中にドサリと夜具をおいて…。 p27 夜着のえりは汚れていた。 p252 止む無く・・・四布蒲団を1枚借りる。 p470 彼は真中に広く蒲団を敷いて…。 書籍・寝具などを運んできた。 夜具(やぐ)・夜着(よぎ)・蒲団・寝具 これらの単語の違いが意識されて使われている。 寝具の単語が明治のこの時代に使われているのが 新鮮な発見だ。 |
77. 日本の面影 ラフカディオ・ハーン 角川ソフィア文庫 |
p199 『鳥取の布団』 ずいぶん昔のことである。鳥取の町の小さな宿屋に、旅の商人が宿をとった。…。 ハーンと言えば怪談話。 ネタばれは避けねば、中身は読んでから。 それにしても布団にまつわるあまりにも悲しい話。 昔は布団が質草になった。北国の冬の夜には最後のよりどころだったのに…。 |
76.寝所と寝具 小川光陽 雄山閣 |
全体がp175のうちp67まではは上代。p165までは江戸時代までの寝所と寝具の歴史がかたられている。明治から1980年までをわずか9ページで述べられています。 全編参考になった。ここでは特に気になったところを抜き書きする。 近世初頭に誕生した蒲団は、江戸では夜着・蒲団。上方では大蒲団・敷蒲団とよばれた。この言い方は最近まで使われていた。 |
75.日本の下層社会 横山源之助 岩波文庫 |
p55 貧民と家賃 家賃の外に貧民の重荷となるはけだしふとんの損料(レンタル料)か。四布布団1枚は1銭5厘は良き方にして2枚以上布団を備えるは少なく、・・・寒中布団なく夜を明かすもあり。 p304 農家の内職 中越の商工地高岡市を過ぐ。丸に屋号を記せる紺木綿ののれんを店頭に吊るせる商家を見ること多し。これ綿屋なり。…地木綿は3日に1反を織りて、綿屋に持ち行かば2反を得べき綿と交換するを得たり。 |
74.大坂 民衆の近世史(老いと病・生業・下層社会)塚田孝ちくま新書 |
大坂の長屋暮らしの人の職業一覧中に『綿屋渡世』『古綿打ち』『綿実の挽き売』なる職業を見つけた。 左の図は古綿打ちの様子。この本には図はないがこのような『渡世』をしていた人がいたのだろう。綿打図・『機織ろく篇』国立国会図書館 p167 高齢で病気の母いよと二人で極貧生活を送っていた。冬の寒い夜には自分の蒲団も母に掛けていたが、どうしようもない極寒の夜には貸蒲団(一夜八銭)を借りて凌いでいた。 |
73.北越雪譜 現代語訳 池内紀 小学館 |
p84 秋山村のこと ....山中なので蚊がいない。蚊帳もめったに見ない。 深山幽僻の地なので、蚕はもとより木綿もできない。衣類に乏しいのはそのせいだ。山に『いら』という草があって、その皮を精製して麻にかえ、衣類をつくる。着たままで寝る。夜具というものがない。冬は一日中、囲炉裏をたき、そのかたわらで寝る。寒さが厳しいときはカマスに入って眠る。妻があるものはカマスを広く作って夫婦が一つのカマスに入る。秋山で夜具を持つ家は当家をほかに一軒あるのみ。それも『いら』で織って、布子の少し大きなもので、客があるとだす。 かます… 穀物・塩・石炭などを入れるための、わらむしろの袋。
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72.沼のほとり 中勘助 |
p39 7月 ・・・前の綿畑には荒いこんがすりをきて手ぬぐいをかぶた女たちが這うような恰好をして草をとっている。 p60 11月5日 前の綿畑にふくふくしい婆さんが綿をつんでいる。かさかさと綿の木をかきわけてつんでは大きなざるに入れる。時々土瓶の口から水をくくんではぷっとふきかける。 我孫子の仮住まいの家の前でワタを栽培していた事がわかった。 これは大発見。我孫子でもワタが栽培されていた。 |
71.江戸近郊ウオーク 現代語訳阿部孝嗣 小学館 |
p158 文化14年(1817年)陰暦6月15日(8月初旬) 一昨日の13日から涼しさを越えて冷ややかなほどの日が続いている。昨日の祇園会に行った時には、綿入りの絹や単衣の物などを重ね着してすませたけれども、夜は寒さに耐えられなかったほどである。 |
70.富岡日記 和田英 ちくま文庫 |
p51 年の暮れ 追々寒くなりまして、もはや一月も間近くなりました頃・・・ 夜具は一人につき、四幅布団が二枚渡されておりますが、なかなか寒くありますから、両人ずつ一所に休みますが・・・・ 商工会の研修で世界遺産の富岡製糸場を見学した。そこでこの本を購入。 現地でのガイドさんの説明に世界遺産になった事に納得した。 現在の布団は三幅布団なのでやや広めの布団に二人で寝た? 二枚を敷きに残り二枚を掛けに使ったと解釈して良いのだろうか。 次回訪問のチャンスがあったら確認したい。 |
69.江戸の家計簿 磯田道史 宝島社新書 |
p141 衣服用 河内木綿 1反 銀3〜6匁 約3150円〜6400円 木綿の小袖を着流しにしたもの |
68.河井寛次郎 現代日本のエッセイ 講談社文芸文庫 |
p130 模様の国紺屋の仕事 その頃の町では何処の家でもてばたを持たない家はなかった。だからふだん着という平常着はみな手織りに限られていたくらいであった。色々な紺や縞物が何処の家でも織られていた。紺やといえばそういう糸を染めてくれる処であったが、ここはまた大まかな模様の付けられた夜具地とか、風呂敷類とか、出産祝いの湯上げとか、屋号入りののれんなどを注文で染めてもくれた。この町にもそういう紺屋が何軒かあった。 p254 点描記 河井須也子 リーチ(バーナード・リーチ)さんの夜具は普通寸法では間に合わず、母は娘時代の振袖の納戸色綸子や羽二重の着物を解き、丸髷に姉さんかぶりをして綿を入れ、リーチさんの身長に合せ細長くつくられたので、私は面白がって「八つ橋のおふとん」と名づけ、はしゃいでいた。 |
67.板谷波山 波山先生記念会 常陽芸文 平成10年12月 |
p11 木綿で栄えた江戸時代の下館 下館は江戸時代…全国有数の綿花の産地、…さらし木綿が生産されていた。…近隣の真岡木綿が名高いが、…下館に真岡の地名があり、…木綿問屋も真岡市に2軒、下館には7軒。 鬼怒川の水運を利用して江戸に送られた。最盛期には100万反に及んだ。板谷家の本家も木綿問屋で下館有数の商家であった。 波山記念館見学のつもりが下館の木綿商いの歴史を垣間見た。立派な下館美術館がある。波山の記念館がある。 町を散策すると蔵造りの大きな商家が目に付き素晴らしい。 記念館の係の方に聞けば下館は木綿の商いで財を成したとの事。 上記の記事もあり。木綿関連情報の思わぬ収穫があった。 |
66.東京の下町 吉村昭 文春文庫 |
p64 私の家の前の道をへだてて、父の製綿工場があった。寝具や丹前の中に入れる綿を製造していたのである。さらに父は日暮里駅から田端駅方向の地に綿糸紡績工場も持ち、長兄に管理させていた。・・・・ それらの工場で仕入れる原綿の輸入問屋の番頭さんたちが家に集まってくる。・・・彼らは、新聞紙で筒状に来るんである原綿見本を広げ、大きな算盤をはじき、・・・・父に見せる。 吉村昭さんは業界では良く知られた問屋『花嫁わた』の出身。 ワタに付いての講演記録などが当家出入りの問屋さんからいただいた事がある。珍しい綿屋さんの家庭・下町の話が興味を引いた。 |
65.河井寛次郎・棟方志功 新学社 |
p79 織ったのはだれであったろう この町(島根県の)でも売品にはしなかったが、大抵の家では織機を据えて織っていた。庫の戸前傍らや、物きの窓の下や、…母親たちは暇を見付けては筬(おさ)をたたいていた。…母親達は、こここそ掛けがへのない一番安穏な場所であり、最上の時であったのに相違なく、他人はもとより、自分自身にさへ煩わされる事なく、その自分さえ消し飛んでしまう場所であったに相違なかった。 p81 当時この町では、縦縞の中に絣を入れたものが織られて、夜具地に沢山使われていた。何処の家にもいろいろなガラの掛け蒲団や蒲団や座蒲団が使われていた。・・・・ p47 どんな仕事場でも街道に向かってあけはなたれていたので、子供たちは見るものが多かった。菓子屋、こんにゃく屋、麩屋、豆腐屋、湯葉屋、紺屋、鍛冶屋、建具屋、白銀屋、轆轤屋、提灯屋、八百屋・・・小さい町ではあったが、一通りの入用のものは、皆町で作られたから仕事の種類は多かった。… 油屋の店の太い角格子の中には椿の実や綿の種や、大豆などを絞る大きな欅(けやき)で組み立てられた頑丈な装置があった。 省略するにはおしい文章が続く。江戸時代から戦前まで続く織物の話が美しい。着るものからふとんの生地まで自給自足されていた、油屋の店先に綿の種があった事の文章を初見した。 ここでも並べられたいろいろの店舗にふとん屋は無い。 ふとんは自家製が当たり前だった事がわかる。 |
64.朝鮮紀行 イザベラ・バード 講談社学術文庫 |
p37朝鮮の第一印象 朝鮮人の外国製品の好きには驚かされる。… 冬には綿入れもめんの衣服を着るという保守性は外国産のウール地に屈さず、ウール地の輸入は文字どおりゼロである。 p108 農民の住居は…壁は土で同じく土でできた床は何本もの煙道で暖める。これは暖房の中でもいちばん経済的な方法で、十歳の男の子が運べる程度の枯れ葉や枯れ草で二つの部屋を十二時間21℃の暖かさに保つ事が出来る。…床にはむしろを敷き、堅い木のまくらがあって、・・・。 p136 勾配の大きい山腹は灌木や石を取り除いて綿花をうえるが、1,000フィートの高さまで栽培している例が多くみられる。 同じ作者の日本紀行は期待したふとんの事が記述されていたが残念ながらこの作品は政治的な記述が多い。 ふとん文化(言ってよいかわからないが)は日本独自のものと言ってよいかもしれない。 ただ日清戦争ごろの歴史の記述は新鮮。 |