西暦 |
時代 |
ワタに関すること |
衣類に関する事 |
14世紀 朝鮮に木綿の種子が伝来 | ||||
1400
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室町 時代 |
14〜15世紀に日本でも木綿を栽培し始める
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庶民はひとえの麻の着物、貴族は絹の着物を使う。
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1500
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戦国 時代
安土 |
16世紀前半 河内・和泉・摂津 (大阪周辺) 三河・伊勢 (名古屋周辺)で木綿栽培が行われる。 16世紀中頃 |
15〜16世紀 貴族社会では木綿は中国・朝鮮からの輸入品だった。
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1600
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江戸 時代 |
17世紀前半 伊勢商人 江戸(大伝馬町)へ進出
17世紀中頃 綿市問屋が繰綿を江戸や北国筋に輸送していた。(産地成立) |
麻から木綿に変わり始める。
木綿が反物として流通し始めた。 |
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1700
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生産分業が進み綿布は全国的に流通
寛政年間(1789〜1801年)には,関東の綿の豊作のため,上方から仕入れた繰り綿が売れなくなるということがあった。 |
東北地方では大阪から江戸に送られた繰綿を糸・布に加工。 |
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1800
1867
1896 |
明治 |
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江戸・東北は関西地方の古着の大消費地だった。
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1900
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これより数年にて国内栽培地は消滅。
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参考文献 新・木綿以前の事 永原慶二 |
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2000 |
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表中の図の名称 上から順番に | 所蔵について | ||
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ワタの摘み取りの様子
資料名不明・小学生用の資料集に掲載されていた。 |
所蔵不明 | ||
ワタに関する全ての作業が描かれている。
英一蝶 職耕図屏風の部分 |
藤田美術館所蔵 | ||
ワタを干しているところ。
住吉具慶 洛中洛外図巻の部分 |
東京国立博物館 | ||
ワタの繊維と種を分けているところ。
鈴木春信 綿繰り僧正遍照 |
東京農工大学付属繊維博物館 浮世絵展示室 |
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木綿・繰り綿の問屋街の様子
歌川広重 東都大伝馬街繁栄之図の部分 |
神奈川県立歴史博物館蔵 |
▽綿の字の意味の変化 △ |
古代・中世では綿の字は絹のワタ(蚕のマユをほぐしたもの)を意味しました。植物のワタが出現したため木綿(もめん)の言葉ができました。さらに本来(絹)の意味を強調するため、真綿(まわた)の言葉が生まれました。 今まで、何故真綿が絹なのか不思議でした。言葉の歴史を改めて教えられました。 右の写真は我が家で現在も売っている真綿。 |
▽ 木綿(もめん)がない時代△ |
木綿がない時代、絹・麻が衣類の材料でした。特に庶民は麻で冬も過ごしました。寒さをしのぐため、裏をつけ麻の繊維のくづやガマの穂をワタとして入れました。麻の衣類は丈夫でしたが、保温力はありません。麻は一反の生地を作るのに手間が非常にかかりました。その点、木綿は分業化が出来、手間がかかりませんでした。 |
▽ 実綿・繰り綿 △ |
実綿は種のついた綿・繰り綿は種を取ったもの。上から4番目の図が繰り綿作業をしている様子、見えないが足元に種が転がっています。2図は綿を俵詰している様子。5図はその荷が江戸に運ばれた様子。大きな荷が関西から関東へ送られていました。 関東では織物の盛んなところへ運ばれそこで糸にされ、布に加工されました |
▽ 綿実油 △ |
木綿の産地では,綿実を搾油し,これも江戸へ送った。灘では,菜種油のみならず,水車搾りにより,おびただしい量の綿実油を生産した。江戸向けの油樽は,当初は裸樽だったが後に筵で包んだ樽を出荷した。 農地で集められた原料は,菜種は菜種問屋に,綿実は綿実問屋をそれぞれ通して,絞油屋へ送られた。 |
東京油問屋史のHPは綿実油だけでなく、ワタ周辺が詳しく記載されている。 綿実油をとおして、ワタのことが良くわかる。 検索されたし。 |
▽ 青森の刺し子 △ |
刺し子とは麻の野良着の隙間に木綿糸を編みこんだもの。 もともとは木綿が貴重だった時代に、わずかの木綿糸を効果的に使うことで寒風から身を守るための生活の知恵だった。 (BSプレミアム)「美の壺 青森の刺し子」より |
▽ 日本のワタ栽培の最初と最後 △ |
戦国時代に木綿が盛んに栽培された理由の1つに火縄の銃の火縄が必要だったこと、足軽が着るものを大量に準備する必要があったことが挙げられていました。 そして太平洋戦争の時に、輸入が止まってしまったため、ワタの栽培が奨励されました。それが軍部の要請で、無煙火薬を作るために必要だったのだそうです。 日本の綿花の栽培の 始まりと終わりが戦争と深い関係があったことは興味深いことです。 |
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