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千葉県我孫子市で67年 木綿ワタでふとんを作っています。

〒270-1152千葉県我孫子市寿2-2-14     TEL.04-7182-0810
メール wata.huton@gmail.com 
メールには必ず返信しています。一日過ぎても返信が無い場合はお電話下さい。

綿とふとんの歴史の周辺

文字情報(文芸作品)の中に、ワタ・ふとんに関しての記述を集めています。

 伊藤左千夫の『野菊の墓』にワタの話が出てきます。舞台は千葉県の松戸市矢切、演歌『矢切りの渡し』で有名なところです。高校生のころは、恋愛小説として読み、当然ワタの事など全く気づきませんでした。
今の仕事に就いて何十年も経ったある時、新聞の文学紹介に『野菊の墓』が取り上げられていました。
作品の中で、周りから二人の関係を疑われる農作業は、綿の収穫だったと解説されていました。
二人は朝早く出かけ、暗くなるまで作業をしなければならなかったからでした。(そんなにワタがとれた。)
 これがきっかけで、読書中に 綿・木綿・蒲団・ふとん の単語に関心を払うようになりました。
新しい視点が増えて発見も多くなりました。
 黒い文字は本文からの抜き書きです
.青い文字は私の感想
もしお気づきの点がありましたら、また情報がありましたら、ぜひメールにてお教え下さい。

   江戸はスゴイ   堀口茉純   PHP新書
p147
神田の丹前風呂(堀丹後守屋敷前に合ったのでこう呼ばれた)
に通う伊達男たちが湯女の着こなしをまねて羽織った綿入れの着物が丹前(どてらともいう)。

丹前の語源を初めて知った。
もっとも現在ではその丹前の言葉は使われなくなり、死語となりつつある。こうして言葉は無くなって行くのだと実感します。

    私の読書法      岩波新書



p129  心はさびしき狩人  開高健
作者が写真を求められて、ホントのところを撮ってみたらと自分の好みを説明したところ、カメラマンに一言で退けられた。
「いけません」という。「何故」と聞くと、
「日本の部屋で写真にふとんを入れると、きまってエロになるんです。そうでなきゃ病人か。どちらかですよ。西洋のベッドみたいに家具になりきっていないんです。」「なるほど」「ふとんは寝るためにしくもんです。ベッドは寝なくても人目にさらしてある。あれは家具です。ところがふとんはそうじゃない。寝る時以外にはかくしてあります」「…ははあ」
「だから、写っているものがエロでなくても、とにかくふとんというものは見ただけでチカチカとくるものがあるんです。日本映画でふとんのあるシーンがでてきたら、ただそれだけでなんだかドキとくるでしょう、」
「そうだな、そう言われると…」以下略
これは個人差がありそうだ、時代もあるかもしれない。ふとんが写真や動画で撮られ、見る人が上記のように感じるのか。私の世代は上記のように感じるかもしれない。今はどうなのだろう。あらたな疑問だ。ちなみに左の写真はどう感じられるのか。

     江戸の都市力   鈴木浩三    ちくま新書
P231
低い物価水準とお金が回る仕組み
『耳嚢』は旗本の根岸ヤスモリの・・・随筆である。
・・・その中に高利貸しの老婆が「病人のふとんをはがしてでも取って来い」と怒鳴りつけ。・・・母親は泣く泣く自分の着ていた綿入れを売り払って返済した。
とありました。ふとんが質草になった時代です。

うつくしく、やさしく、おろかなり私の惚れた江戸   杉浦日向子
江戸町人と結び
p86
当時、布は貴重品で手ぬぐいをもらうのは、いまでいうとエルメスのスカーフなどのブランド品を贈られるほどの事でした。毎年、新柄がでて、人気の柄はプレミアムがつくほどだったのです。

江戸の旗本事典  小川恭一  角川ソフィア文庫
p224 嫁入り費用の捻出法
二女の嫁入り
持参金(土産金)は望まず、木綿の夫婦夜具と二人のぜんわんだけで良いという家がありました。

厚い本であったが木綿・ふとん関連は記述がほとんどなかった。
嫁入りに欠かせない物として布団『夜具』があげられていました。

木綿以前の事  柳田国男  岩波文庫
木綿以前の事
木綿が我々の生活に与えた影響が・・・はるかに偉大なものであった・・・。
単純なる昔の日本人は木綿を用いぬとすれば麻布より他に、肌につけるものは持ち合わせていなかったのである。木綿の若い人たちに好ましかった点は、新たに流行してきて珍しいというほかに、なお少なくとも二つあった。
第一に肌ざわり、野山に働く男女にとっては、絹は物遠くかつあまりにもなめらかでややつめたい。柔らかさと摩擦の快さは、むしろ木綿の方が優っていた。第二にはいろいろの染めが容易な事・・・・好み次第に、どんな派手な色模様にでも染まった。
・・・作業はかえって麻よりもはるかに簡単で、わずかの変更をもってこれを家々の手機で織りなすことができた。

東海道中膝栗毛を旅しよう  田辺聖子    角川ソフィア 文庫
p68
弥次・北が山中の立場の茶屋で休んでいると、ここの庭のへっついの前で雲助たちが休んでいる。その風体と見れば、蒲団を体に巻いた奴、渋紙を着た奴、あるいは寝ござ、赤合羽を着た奴などが、集まって火にあたっている。
p196
松坂近郊は木綿を産する松坂木綿で有名だが、寛政4年(1792)
の江戸向け積み出し高は55万6千反に達した。
p237
この部屋へ…<お床をとりましょう>と女中が来て、ぽんぽんと蒲団をほりこんでゆく…。

    育児の百科 松田道雄   岩波文庫 

p99
25 赤ちゃんの寝具と枕
赤ちゃんは文禄年間(江戸時代)に綿が入ってきて以来、綿のふとんで寝ていた事になる。これからも赤ちゃんは綿のふとんでねた方がいい。通気がよいこと、日に干すとふっくらとふくれること、赤ちゃんの汗を吸い取ってくれること、化繊やウレタンのまねのできない長所がある。・・・・
・・・・赤ちゃんの枕は必ずしも必要ではない。
育児書のバイブル...伝統的なふとんの良さを端的に指摘。
素材の良さが一番大切とあり、ふとん屋としてはうれしい。
自信を持って若いお母さんにお勧めしたい。

    日本の家   中川武    角川ソフィア文庫






p87
「襖」の語源説としては諸説がある
一、夜具である綿入れの「フスマ(衾)」に代えて寒さを防ぐことから。特に紙衾(紙蒲団)に似ており、衾を広げたように張るところから。・・・以下略
p190
古代貴族の住宅様式である寝殿造では坐具または寝具として畳が使われていた。
元来「たたみ」は、薄い敷物状の素材(菅、獣皮、布など)を幾枚か重ねて刺してつくった敷物の事で、「重ねる」「厚い」の意味がある「畳」があてられた。

もう少し「家と布団」について語られているとうれしかった、日本家屋と布団は密接にかかわっていると思う。写真が豊富な本だから、余計布団が絵になるのではないかと思った。残念。
 布団の収納スペースとして、押し入れはいつごろ生まれたのだろう。この本を読んでいて、意外に新しいのかも知れないと思った。

    シドモア日本紀行  エイザベス・R・シドモア 講談社学術文庫
p187 今市の宿
日本式のベッドはじかに床に敷かれ、木箱の首当てが枕の代わりになり、布団が掛け物代わりとなります。外人に対して宿屋の主人は、五、六枚の綿詰め布団を割り当てます。これは多少湿ってかび臭くスプリングが利かなくても、かなり上等な寝具です。旅行者は自前の敷布や毛布、羽根枕や空気枕、さらに蚤よけの粉薬が必要で、特にこれは大事な旅の必携です。・・・・・
死後日本に埋葬されるほどの親日家。ポトマック湖畔の桜に関係。富士登山はこの時代の記録として興味深い。

    百万都市 江戸の生活  北原進     角川ソフィア文庫






消費都市の経済と商業
「下り物」は高級品
p113
享保の改革の時、物価統制や流通商品の調整のため、幕府は享保9年(1724)から15年にかけて、大阪から江戸へ運ばれる生活必需品15品目の数量を調べている。それによると、繰綿(綿布の原料)・木綿・油・酒・醤油の5品目が毎年大量に運び込まれているが、米・炭・魚油・塩は年によって変動があり、薪・味噌の類は全く入ってきていない。
享保11年の下り繰綿は98000本余り(1本は9貫300匁)に達しているが、そのほとんどが大阪周辺で生産されたものとみられる。しかも繰綿は江戸問屋を経て東北・関東の各地へと販売されていった。木綿も江戸に入ってきた36,000個のうち34%までが下り荷であり、残りは三河・尾張・伊勢の産であった
p115
寛政年間(1789〜1801)のはじめごろ、関東の綿が豊作で、上方から仕入れた繰綿が売れなくなるという事態が起こった。武州木綿の江戸入荷量も幕末には下り荷物を圧倒した。

享保11年に関西から関東に下った繰綿は約40`の荷が
98,000本、なんと約3,920,000`ほどになる。それを糸にするために関東・東北へとさらに移動した、すごいことだ。

柿の種 寺田寅彦 岩波文庫




p194
曙町より(27)
 子供の時から夜具といえば手織り木綿の蒲団にあまり柔らかくない綿のはいいたのに馴らされてきたせいか今でもあまり上等の絹夜具はどうも体に適しない、それでなるべくごつごつした紬か何かに少し堅く綿をつめたのを掛け蒲団にしている。
 今度からだが痛む病気になって臥床したまま来客に接するのにあまり不体裁だというので絹の柔らかいのを用いることにした。ところがこの柔らかい絹蒲団というやつはいくら下からはね上げておいてもちょうど飴か餅かのようにじりじりと垂れ落ちてきて、すっかり体を押さえつけあらゆるすきまを埋めてしまう。・・・・・運命の神のごとく恐ろしいものは絹蒲団である。   昭和10年11月 渋柿

 綿ではなく、絹の生地を使ったふとんの使用感。そんなにすべるものかと疑問が湧くが、あのすべすべ感は場合によってはこうなのかもしれない。昔、婚礼のふとんは正絹で作っていたが若干生地が弱かった。使用品度にもよるが生地が切れて打ち直しで戻ってくることが多かった。

百姓の力  渡辺尚志  角川ソフィア文庫
p209
商品貨幣経済のの浸透
 18世紀後半以降・・・上総国の東部地域では、棉の栽培と綿布の生産が盛んになりました。(本書では植物は棉、糸や布は綿と使い分けています)
当地の布は丈夫だったため、「上総木綿」といわれて江戸などでも重宝されました。一種のブランド品となったわけです。房総地方は全国的に見れば幕末まで自給生産の比重の高い地域でした。・・・・
河内の国では田を畑に変えてまで棉の栽培面積を増やしました。

h26年に見た 『房総のむらの特別展』もめんー房総の木綿文化 につながっていくことが理解できた。

日本絵日記  バーナードリーチ  柳宗悦訳 講談社学術文庫真



第3章 深まる印象
生活様式の西洋化の正気とは思えぬ流行は、やがて阻止されるのだろうか。将来日本人は床の上や椅子の上で生活するつもりなのだろうか。20年の内には「畳敷き」の和室は…贅沢な物になってしまわないだろうか。近代的要求を満たすためには、日本式家屋の暖房には何が一番良いだろうか。…
 驚いた事に、私が以前ためした事、つまり和室の床に足を入れる穴を作り、その上にちゃぶ台をのせる方法が流行している事を偶然発見した。
 日本の北の寒い地方で、炬燵と呼ばれるそれは、暖房に広く使われていた。床の穴には小さな火鉢が入れてあり、木組みの枠に刺子のふとんが掛けてある。・・・・私のはテーブルをかぶせてあって、私たち外国人は比較的快適に座ることができた
どうも掘り炬燵を言っているようだ。リーチの発明?だった。
そうだとしたら日本通の人ならではの工夫だ。
江戸時代の挿絵などでも掘り炬燵はまだ見たことがない。

信憑性はあると思う。

武士の絵日記  大岡敏昭  角川ソフィア文庫
p6 江戸から北に15里ほど離れた武蔵野の一角に小さな城下町があった。幕末には松平氏所領の忍藩10万石の城下である。そこに尾崎石城という下級武士がいたが、彼の書き記した「石城日記」が残されている。・・・日記は絵日記である。

埼玉県行田市の江戸時代の武士の生活。
絵日記なので日常が丹念に描かれていてうれしい。文章ではなく絵なので良くわかる。
下2枚の絵は 慶応大学の文学部古文書室の資料
やぐらにふとんが掛けられた炬燵
かいまき布団、炬燵の中に足を入れているように見える。寒ければこんな使い方もあった。
掛けふとんにえりが付いているように見える。


 村 百姓たちの近世 水本邦彦  シリーズ日本近世史 岩波新書




P8 
農業のほかに男はわらむしろ織り、日雇い稼ぎ、または木挽きにまかり出る。女は賃仕事として麻糸を績む。木綿も着用ほど紡ぐ。
酒人村の村絵図の関係記事
P89
河内国大平寺村の労賃 安政7年1860年大平寺村村掟より
女 夏綿まびき日雇い賃185文
女 綿取り日雇い賃185文
P130
いろいろな農作業があった。・・・・綿は4月初め・・・に植え付ける。
11月中旬から3月頃までは薪取り、わら仕事、木綿布織りの仕事も加わる。薪取りは男女共同で行い、縄や筵・俵・草履などを作るわら仕事は男が、木綿布織りは女が担当した。これらの仕事はもっぱら雨天の日々の仕事だった。
p171
大阪近郊農村などの都市に近い村々の中には、すでに17世紀後期、換金作物の木綿栽培にシフトし、米を購入して年貢米に充てるといったところさえ生まれていた。
p172
享保の改革では、年貢増収の観点から木綿などの商品作物栽培を公認する方針も採用した
米を購入して年貢米としていたとは驚きだ。


 房総のむら もめん特別展 見学と体験
千葉県立房総のむらの特別展を見学してきました。
学術的な房総のワタの研究です。
私にとって二つの重要な事がわかりました。
一つはワタの繊維を糸にする方法が体験できたこと。ワタの塊からどうやって糸にするのかがやっとわかり感動しました。
二つ目は千葉県内で江戸時代に広範囲にワタが栽培されていた事がはっきりわかりました。
厚めのカタログを買ってきて熟読しました。
我孫子市でも戦前には木綿の織物を作っていた作業所がありました。
なんと当家のお得意さん宅。身近に知らないことがあるものです。
仕事でお伺いした時、当時のお話しをお聞きしました。
写真にリンクを付けましたのでぜひのぞいてみてください。

   小説 泳ぎたくない川 愛川欽也  文春文庫
P79
藁(わら)を束ねて厚くしてそれを布の袋の中に詰め込んだ藁布団は夏は涼しく冬は暖かいというので、秋田では良く使われている。寝る時もすっ裸で藁の布団の中にもぐり込んで寝た方が夏も冬も快適だと学校の友達から聞いたことがある。

作者が小学生の頃疎開先での見聞。藁布団の事は珍しいので書き留める。二〜三世代前だと知っている人がいただろうが、『恥かしがってだれも言わない』ので貴重な文書だと思う。
木綿ワタが高価だったからか、それともワラの方が快適だったからか。
ワラ布団は多くの農家で利用されていたらしい。

    カムイ伝講義  田中優子  ちくま文庫








P32 岸和田藩の綿作は1626年から始まった。かなり早い出発である。18世紀になると、藩のほとんどの村が綿作を行っていた。収穫された綿はそのまま、或いは繰り綿として売却されたそうで、・・・岸和田藩は後の時代では紡ぎや織りもおこなわれ、それらは和泉木綿と呼ばれる。・・・和泉の国の村々は綿作の発達で干鰯の導入も早く鍬の改良やセンバコキの導入など、農業技術が進んでいた。

 第三章 綿花を育てる人々
P81〜p111まではすべて綿花の事全文は無理なので気になった一部
p99 木綿には二種類あった
p101 十七世紀前半の帆布のような木綿と、十七世紀後半から現れる、着物に仕立てられた絹のような手触りの木綿とは、異なる木綿だったのではないか?私はそう仮説を立てている。
p102 浮世絵にも…1765年ごろから急激に登場人物たちが細かい縦じまの着物を着るようになる。これは最初はインドからの輸入品として木綿が都市の着物となり、やがて国産化してゆく過程だったのではないだろうか。・・・・
江戸時代の木綿はおそらく、単に国産化しただけでは広がらず、そこにインドの技術と感性が入ってきたことで、飛躍的に発展したのである。

縞模様が粋(いき)な図柄で有ることもこの時代に作られた感性だったのだろう。大なり小なり外国との関わりの中から進歩してきたことがはっきりわかってきた。

   江戸の経済事件簿 地獄の沙汰も金次第       赤坂治績 集英社新書






p32 木綿と絹に見る交易と生産
1.中世までの木綿 
 初期の栽培・生産地は五畿内(大和・山城・河内・摂津・和泉)、東海(伊勢・三河)など温暖な地域だった。
2.江戸時代の木綿の生産
p34 
 正徳2年(1712年)に成立した百科事典『和漢三才図会』は各地の木綿の品質について、「伊勢松坂を上とし、河内・摂津がこれに次ぎ、三河・尾張・紀伊・和泉を中とし、播磨・淡路を下とする」と書いている。
 木綿の生産地として特に有名だったのは伊勢・松坂である。
大伝馬町の木綿問屋街「木綿店」(もめんだな)に伊勢商人が多かった事はよく知られている。大伝馬町はもともと伝馬役(宿継の馬を扱う国役)が住んだ町で、使役の代償として木綿の売買が許された。初めは伊勢の出身者はいなかったが、寛永頃(1624〜44)から、木綿の確保が容易だった伊勢商人が進出し、次第に多数を占めるようになる。・・・こうして木綿は苧麻に代わって着物の素材になっていく。・・・。
p55
木綿の生産は畿内が中心だった。関東でも天明・寛政の頃(18世紀末)から野州(栃木)・常陸(茨城)・下総(千葉県北部)などで本格的な木綿の生産が始まるものの、江戸で使う木綿の大部分は幕末まで上方から供給していた。

東京・下町山の手1867-1923 エドワード・サイデンステッカー  講談社学術文庫
デカダンスの退廃 p248
吉原には季節と深く結びついた独自の祭りがあった。・・・
「積夜具」と称する奇妙な風習があって、明治になっても、江戸時代ほどで度々ではなかったが、まだ見られたものらしい。花魁が客から贈られた夜具を店の前にうず高く積んで、自分の人気と客のお大尽ぶりを披露するのである。・・・披露のために特別に注文した夜具は,金糸銀糸の縫いとりを施し、思い切って派手な色の絹地だった。

作者は2007年没の大学教授、日本人が書いたものかと錯覚する。
ふとんの記述はこの箇所だけ。それでも浮世絵だけでない文字情報で夜具
(敷きふとん)の情報を得ることができた。ふとんが高価であったことが良くわかる。


皇太子の窓  E・G・ヴァイニング    文春学芸ライブラリー  
第13章
内親王様のお家は純日本式で、夜はタタミの上にフトンを敷いてやすまれるのであった。蒲団は大きくて重いので、扱いにくい。毎晩やすむときに押し入れから取り出して畳の上に敷き、天井から部屋いっぱいに蚊帳を吊る。毎朝蒲団も蚊帳もすっかりたたんで片づけてしまうと、部屋は空になって、日中は何にでも使えるのである。・・・・・ご自分の蒲団をご自分で出し入れなさることがその夏の内親王方へのご教育の一部になっていた。

終戦直後、皇太子の家庭教師として来日した作者の布団に関しての記述。
皇室でも蒲団を使い、上げ下ろしをしていたことがわかる。あたりまえな事だが漏れ聞こえてくることが無いので、初めて知った。『重い・扱いにくい』とありますが昔は沢山ワタを入れていたのでこのような感想だったと思われます。今は、扱いいやすく軽くできます、ので一言添えておきます。

シュリーマン旅行記清国・日本 ハインリッヒ・シュリーマン講談社学術文庫
P82 第4章   江戸上陸  6月
道を歩きながら日本人の家庭生活の仕組みを細かく観察することができる。・・・・夜の9時ごろには、みな眠ってしまう。家族がその上で一日を過ごしたござは、同時にベッド、マットレス、シーツのようを務めるのである。そこに枕を加えればいいだけだ。
P108 我々には2回の一室があてがわれた。夕食後、我々全員が入れるくらい大きな蚊帳が二張り吊られた。蚊帳の中で頭を基の小さな枕に預け、床に敷かれたござの上に疲れた手足を伸ばした。

6月なのでこのような記述になった。掛けるものは何も無い。
冬だと少し違ったものになっただろう。


ビゴーが見た日本人    清水勲   講談社学術文庫
p152
横山源之助著 『日本の下層社会』によると・・・夫婦と子供一人という芸人家庭の一日の生活費(米代、薪炭代,肴代、酒代、煙草代、石油代、子供のこづかい、家賃、布団損料)が33銭3厘とでている・・・

布団損料とはレンタル料の事か。江戸時代にもあったようなので、そのまま明治になっても続いたやり方だったのだろう。自分のふとんを持つことが困難だったことがわかる記述。

幕末日本探訪記 江戸と北京  ロバート・フォーチュン講談社学術文庫
p222
宿の一夜
....寝室の床には清潔な畳がしかれ、部屋の真ん中に綿のはいった蒲団がのべられて、頭を休めるための木の枕が置いてあった。部屋とほとんど同じくらいの大きさのゆったりした蚊帳が、天井から床までとどいていた。

 幕末にプラントハンターとして植物学者が来日した時の様子。

テレビ時代劇・局超え継承    H26年6月14日 日経文化欄

例えば座布団は幕末まで存在しなかったので、『大岡越前U』には登場しない。



TVの時代劇の時代考証の伝承が難しくなったのでノウハウを共有しようとしているらしい

続・絵で見る幕末日本  エメエ・アンベール     講談社学術文庫  
p230 第17章   田舎
 庭や果樹園、けしやソラマメの畑、穀類や綿畑を横切って平野のほうへ下る小路に沿って、澄んだ川が音を立てて流れている。
江戸の郊外を一般的に解説した部分、ある特定の場所を描写したものではないようだ。
1年半の滞在で実によく日本の状況を描写している、若干廻りくどい部分がある。

絵で見る幕末日本  エメエ・アンベール     講談社学術文庫  明治3年
p118  日本人の家庭生活
 日本人の住宅の床は、常時、畳で覆われている。・・・
畳はまたいろいろな家具の代用にもなっている。それは藁布団の役を務め、その上で、日本人は綿を入れた広い夜具にくるまって眠っている。
幕末のスイスから来た外交官の作品。布団関連の記述は少ない。スイスとの外交がこの人により開かれ早い時期にスイスの時計が日本に紹介されたらしい。

浮世絵で読む、江戸の四季とならわし    赤坂治績  NHK出版新書
p223
炬燵(こたつ)には、床に炉を切って固定しその上に布団を被せた『掘り炬燵』と、櫓の下に火鉢を置いただけで持ち運びできる『置炬燵』がある。炬燵を使うようになったのは戦国時代からのようだ。禅寺で囲炉裏の上に櫓を載せて暖をとったのが炬燵の始まりとされる。戦国時代の炬燵櫓は低いものだったが、江戸時代に入ると櫓の高い『高炬燵』を使うようになり、のちにその種類の櫓が一般的になった。
炬燵は毎年、十月初めの亥(イノシシ)の日に設置した。炬燵開きという。・・・この日に暖房具である炬燵を設置すると火災が除けられるとしんじられた。
子供のころから炬燵を使っていたので、改め炬燵が日本人の発明だとしり驚いています。

  日本その日その日 エドワード・S・モース   講談社学術文庫 明治9年



p15
 朝食が終わるとすぐに我々は町を見物にでかけた。・・・
部屋に時にたんすがある以外、椅子、テーブルその他の家具は見当たらぬ。・・・家族は床の上に寝る。だが床には6フィート(約180p)に3フィートの、決まった長さのムシロがあたかも子供の積み木が箱にピッタリ入っているような具合に敷き詰めてある。枕には小さな頭をのせる物を使用し、夜になると綿の充分はいった夜具を上からかける。
p57 
 日光中禅寺湖畔
この国で最も有難からぬ厄介物の一つは蚤である。・・・
どこでも使用する藁の敷物が、彼ら(蚤)にこの上もない隠れ家をあたえる。我が国の夜具の役をするフトンは木綿か絹の綿―最高級家を除いてはめったに後者を使わぬ―を沢山入れた上掛けである。
p181 日本の料理屋に食事に招待され・・・・
 床には四角な筵に似た蒲団が一列に並べられ、その一枚一枚の前には四角いヒバチがおかれた。布団は夏は藁でできているが、冬のは布製でワタがつめてある。
イザベラ・バードの日本紀行 下   講談社学術文庫 




p215 東京に関するノート
 日本は・・・湿気のせいで寒さは身にしみ、容赦がない。寒くなればなるほど東京人は恰幅が良くなる。というのも、綿入れの服をつぎつぎに重ね着するからで、両手を幅広の袖の中に引っ込めた姿は紐を掛けた鶏のようである。冬には帽子をかぶっていない頭は見かけず、この綿入れを着込んだ格好のその上で、木綿地の縁のあいだからふたつの目がのぞいているわけである。

p308 第55信 11月10日伊勢、山田にて
 こたつは日本ではおなじみの物で炭火を入れた鉢に四角い木の枠がかぶせてあり、この枠が大きな綿入れのキルトすなわち布団を支えているもので、布団の中にそっと入り、布団をあごまで引っ張り上げたまま、暖かくて不精でだらしない夕べを過ごします。一つのこたつに5人か6人、いいえ、もっと大勢の人々があたれます。今この瞬間にも日本の家庭の半分が炬燵で体を寄せ合っているのは間違いないと思います。
p323
 冬、初めての寒さは厳しいものでした。部屋はとても湿気ており・・・・震えながら、火鉢とやかんを抱くようにしていました。積み重ねた布団が手に入ったので、その重みには頓着せずにそれをかぶって休み、寒さで夜の夜中に目が覚めて、頭と顔をショールで覆いました。

p401   日本の現況
 日本はヨーロッパとアメリカから綿糸、各種の綿製品と羊毛製品、鉄、機械、灯油、その他刃物類、皮革・・・など雑貨を輸入しており、清国からは砂糖と、日本では収穫の不安定な原綿を時折輸入している。…綿製品の需要はほぼ不動のようである。また綿糸の需要は着実にふえている。
 後者の状況は綿糸業の堅実で有望な特徴とみなされよう。どの田舎にも機があり、家の女たちがその機を使って布を生産できるのである。布は本物の布である・・・。大半が外国産の綿糸を使っており、外国産綿糸は自分で糸を紡ぐより安く調達できる。・・・・このように地場産業は外国産業に取って変わられるのではなく、それとともに機能し、その結果国の生産高を大きく増やしている。 
 日本に原綿・綿糸が輸入され、すべてがすたれてしまったと思っていたが、そうでないことがわかる。全国の各家庭で機織りが出来たために、外国製品に完璧にやられてしまうことなくバランス良く産業として発達して行った。江戸時代の素晴らしさが垣間見える。関東地方の繊維産業地域がすでに江戸時代に準備されていたということのようだ。
 上下巻通して日本の子供たちの素晴らしさを感じた、素直で親の役に自ら役立とうとしている姿が印象的だった。治安の良さも抜群で外国の女人が未開地を旅しても怖さは全くないと書いている。

イザベラ・バードの日本紀行 上   講談社学術文庫 明治11年4月の紀行文
p135  第9信  日光へ向かう途中
 旅を続けるうちに…農村は心地よさげに木々に囲まれ、…数多くの女性が家の表に坐って約38p幅の木綿地を織っています。綿糸は大半がイギリスから輸入され、地元産の藍が染料に用いられます。年老いた女性が糸をつむぎ、老若どちらの女性もかしこそうな赤ん坊を背中に負った上からキモノを着て、仕事に精を出しています。

p177  第13信  日光で
 こちらの人々は夜明けとともに起き、それまで寝ていた布団をたたみ、上に小さく紙を巻いたものか、小さなクッションの付いた、立体鏡のような形の木の枕ともども引き戸の付いた押し入れにしまいます。畳をていねいに掃き、木造部のすべてと縁側を拭いて、雨戸と障子をあけます。
p182
 …そして10時ごろには布団と木の枕を押し入れから取り出し、雨戸にかんぬきを掛け、家族全員がひとつの部屋で寝ます。
p277  第21信  新潟にて
 既製や中古の男物の衣服だけを売っている店は多くあります。女物は注文するか自分で仕立てるのが常です。 毛布やきわめて厚かましい「再生毛布」のイギリス産ウール製品を売っている店もあれば・・・・
p282
…店の前に座り日本製のミシンを動かしている仕立て屋がいます。綿打ち屋、精米屋、機織り屋、眼鏡屋、針屋、鋳掛屋、薬草屋、両替屋、たばこ刻み屋、画商、…。さまざまな製品の仕上げの良さは注目すべきものです。
p389  第29信 久保田にて
裕福な商人の子女の嫁入りの家財道具の内訳は、木の枕ふたつ、木綿の布団、とても立派な絹布団2枚、絹の座布団数枚、漆塗りの裁縫箱、紡ぎ車、漆塗りのお櫃としやもじ、・・・・。
p445  第33信  白沢にて
この宿やには子供が12人おり・・・暗くなると決まって、子供たちはいろはカルタで遊び・・・、畳には綿打ち中の綿花があり、奥の暗がりからは4頭の馬がほのかな明かりに照らされた子供たちの輪を眺めていました。
開国から10年の日本の様子がよくわかる。
明治10年代には綿糸の輸入がされていたことが驚きだ。機織りはどこの家庭でも見かけた光景のようだ。
綿糸を買い反物を作り裁縫し着物を作る。これが日本の家庭の日常だった。
綿打ち屋という店舗があったことが初めて確認できた。
逆に蒲団屋の店舗はここでも確認できなかった。現状のようなふとん屋の出現は明治の後半になってからと考えてよさそうだ。

   古文の読解  小西甚一   ちくま学芸文庫 31
p41  きものはどう着るか
 一つ述べておきたいのは、女性でも男性でも、寝室でフトンを使わなかったことである。褥(しとね)という薄いマットをしき、着物をぬいで単衣だけになり、いまぬいだ着物をかけて寝たのである。これは、着物がみな大型であったこと、何枚も重ねていたことから、こんな風になったのであろうが、暖房設備の貧弱きわまる時代に、なんとまあ辛抱のよかったことよ。
一挙に平安時代のふとんの話になった。平安時代から江戸時代の中頃ぐらいまで同じような状態が続いて、ずいぶん辛抱の時代が長かった。この間、工夫はなかったのだろうか。稲を栽培していた農民はわらや籾がらにくるまって寝ることも出来たであろうが、むしろ支配階級が寒かったのではないかと想像できる。

   謎解き散歩 千葉県 森田保    新人物文庫
p125 九十九里の干鰯(ほしか)はなぜ全国的商品に
 芭蕉の句に「名月の花かと見えて綿畑」というものがあり、この句は伊賀の山中で詠んだとされる。保温、染色にすぐる木綿栽培はすでに重要な商品作物となっており、摂津では当時、米作では反当たり二表の干鰯を必要とし、対して木綿栽培では十俵を要したと言われていた。
さらにその需要は藍、ミカン、砂糖、麻、桑の栽培におよび、関東産の30〜40万トンの出荷量のほとんどが房総産の干鰯でまさにそれ自体日本最大の商品だった。

   寺田寅彦      ちくま日本文学

P31   糸車   (昭和10年のエッセイ)
祖母は文化12年生まれで明治22年自分が12歳の歳末に病没した。一番自分に親しみと懐かしみを感じさせるのは、…糸車を回している袖無羽織を着た老媼の姿である。…自分も子供固有の好奇心から何度か祖母に教わったこの糸車で糸を紡ぐまねをした記憶がある。綿を「打った」のを直径約1p長さ約20pの円筒形にまるめた物を左の手の指先でつまんで持っている。その先端の綿の繊維を少しばかり引き出してそれを糸車の紡錘の針の先端に巻きつけておいて、右手で車のとってを適当な速度で廻すと、つむの針が急速度で回転して綿の繊維の束に撚りをかける。・・・以下略(作業を詳述)
p33  
 ひと年かふた年ぐらい裏の畑に棉を作ったことがあった。当時の子供の自分の目映じた棉の花は実に美しいものであった。花冠の美しさだけでなく花がくから葉から茎までが言葉では伝えないような美しい色彩の配合を見せていたように思う。観賞植物として現代の都人にでも愛玩されてもよさそうな気のするものであるが、子供の時宅の畑で見たきりでその後どこでもこの花にめぐり会ったという記憶がない。・・・
花時が終わって「もも」が実ってやがてその凵iさく)が開裂した純白な綿の団塊を吐く、うすら寒い秋の暮に祖母や母と一緒にてんでに味噌漉しを提げて棉畑へ行って、その収穫の楽しさを楽しんだ。少しもう薄暗くなった夕方でも、この真っ白な綿の団塊だけがくっきり畑の上に浮きあがって見えていたように思う。・・・
 採集した綿の中に包まれている種子を取り除くときに、「みくり」と称する器械にかける。これはいわば簡単なローラーであって、二つの反対に廻る樫材の円筒の間隙に棉実を食いこませると・・・以下略(作業の詳述)
p35
 こうして種子を除いた綿を集めて綿打ちを業とする者の家に送り、そこで糸車にかけるように仕上げしてもらう。話に聞いたところでは、鯨の筋を張った弓の弦で綿の小団塊を根気よくたたいてたたきほごしてその繊維を一度空中に飛散させ、それを沈積させて薄膜状としたのを巻紙を巻くように巻いて円筒状とするのだそうである。そうして出来た綿の円筒が糸車にかけて紡がれるわけである。・・・・
p36
 祖母の紡いだ糸をツム竹から一遍四角な糸繰り枠に巻き取って「かせ」作り、それを紺屋に渡してそめさせたのを手機に移して織るのであった。裏の炊事場の土間の片隅にこしらえた板の間に手機が一台置いてあった。・・・・・。
 純粋な昔風のいわゆる草木染めで化学染料などの存在はこの老人の夢にも知らぬ存在であった。この老人の織った蒲団地が今でもまだ残っているが、その色がちっとも褪せていない・・・・。
p38
 化学的薬品より外に薬はないように思われた時代の次には、昔の草根木皮が再びその新しい科学的な意義と価値とを認められる時代がそろそろ巡ってきそうな傾向が見える。いよいよその時代が来る頃には、あるいは草木染めの手織り木綿が最もスマートな都人士の新しい流行趣味の対象となるという奇現象が起こらないとも限らない。・・・・
p39
 昔の下級士族の家庭婦人は糸車を廻して手機を織ることを少しも恥ずかしい賤業とは思わないで、つつましい誇りとしあるいはむしろ最大の楽しみとしていたらしい。
 いささか長い引用になった。全文を引用したかったが長すぎるので割愛した。
綿繰器を『みくり』 ということがわかった。
今までの断片的な情報が一挙に明らかになった感がある。捜していた文章にやっと出会った。
ただし布団についての記述が無いのが誠に残念。科学者がふとんを語ったらどうだったのだろう。
寺田寅彦はこの年の12月に亡くなっている。

藍染め筒描(つつがき)の魅力  下  
                     2013年9月15日 日本経済新聞 美の美
庶民が日常生活に使う工芸品に美を見いだし手民芸運動を先導した柳崇悦。・・・・・
筒描の技法は古代からあったとみられるが、最古の遺物は室町時代のもの。木綿が飛躍的に増えるのは江戸中期の元禄時代だ。綿花の栽培が広がり、阿波特産の藍の生産も西日本を中心に活発になる。木綿を藍で染める筒描は全国に流布し、各地に紺屋も増える。


    藍染め筒描(つつがき)の魅力 上
                   2013年9月8日 日本経済新聞 美の美



筒描は染色技法の一つで、藍などで染めた木綿や麻に絵柄や文様を描いて彩色する。・・・・フランス画壇んで活躍した藤田嗣治が愛好した筒描の展示も話題だ。濃紺の木綿地に茶道具を描いた、素朴な味わいの作品。もともとは掛け布団。藤田は綿を抜き、タペストリーのようにして壁に掛けていた。36年に描いた自画像にその様子が分かる。・・・・
 


   塩の道     宮本常一       講談社学術文庫
 p137  作物の力によって生み出された新しい産業
人がふえていくと新しい職業が発生していきます。・・・・
さらに女の労力が利用されて木綿織りが発達してきます。関西を中心にした木綿織りは一つの産業になっていきます。そこでいろんなものが織られていくようになる。そしてその織られたものは船によって北は北海道まで運ばれる。これは全く新しい作物の力であったと言ってよいと思います。

      お伊勢参り 江戸庶民の旅と信心      鎌田道隆  中公新書
p54
「この家、料理塩梅上手なり夜具他家に勝れてよろし、・・・・」
p57
前夜にも出された絹ぞろいの夜具40枚にくるまれ、「熟睡におよび衆人前後を知らず」臥したという。
江戸時代には伊勢講という集団旅行が、御師と呼ばれる今の旅行代理店の添乗員によって、とり仕切られていた。粗末な状態を想像していたが、意外にしっかりした事前の連絡網で食事もきちんとされていた。宿もしっかりしていて、寝具は正絹の夜具が用意されていたようだ。これはかなり高価な寝具だ。移動は徒歩であったが、それ以外の宿の様子は現在と大きく変わりなかったようだ。

     成熟する江戸   講談社日本の歴史17      吉田伸之
p185
木賃宿経営(きちんやど、一般の旅人宿に止宿できない者を泊めさせる)・・・
どんな稼ぎかによらず、寮坊主の宿を頼ってくるものを宿泊させ、一泊一人の木賃を男女ともこれまで銭二十四文ずつ受け取ってきました・・・・・夜に蒲団を望む者には一枚に付き蒲団の善悪によって十文または十六文くらいづつの代金でかしています。

p206
一日十六文から二十四文位で蒲団をかしています。
 熙代勝覧(きだいしょうらん)1980年代にドイツで発見された日本の絵巻物、文化文政時代の神田今川橋から日本橋に至る百十の各種店舗が描きこまれている。この本はこの絵巻を詳細に見て江戸時代を描いている。
それだけ詳細ながら、残念ながら、この絵巻のなかに布団屋・蒲団屋と思われる店舗はない。この時代には江戸の表店として営業していなかったことになる。ふとんを店頭にならべて商うようになったのは、いったいいつごろなのだろう、いずれにしろ新しいことであることが再認識させられた。
 唯一、蒲団を貸していたという記述があったので、書き留めました。


     天下 家康伝   火坂 雅志  日本経済新聞夕刊 連載中


2013年5月24日
三河の国には、三河木綿なる特産品がある。
我が国に綿種が伝来したのは、延歴18年(799年)桓武天皇の世であったと古記録はしるしている。三河国幡豆郡福地村に漂着した崑崙人が持っていた種が同地に広まり、以来、三河は木綿の産地として世に知られるようになった。「三河には女が多い」と言われるが、それは綿摘みの人手として近隣諸国から出稼ぎの女たちが集まってきたからにほかならない。
 丈夫で肌触りのよい綿織物は木綿商人たちによって上方に持ち込まれ、三河国に大きな富をもたらした。
 山岡荘八  徳川家康 には別の解釈がされている。リンクを付けたので、読み比べていただくとおもしろい。小説なのでストーリを膨らませる小道具として使われているのであるが、三河国はこの時代、綿栽培を抜きには語れないということだろう。ただし女が多いのは、綿摘みの人手だけと言いきっているのは、問題があると思う。アメリカの黒人奴隷のイメージか。綿摘みだけなら、数週間もあれば済んでしまうだろう、むしろ摘んだ後のワタ繰り・糸繰り・機織り・染色などに人手が必要だったためと思う。
 またワタの種が799年に伝わり、それ以後栽培が始まったとするのは今までの知見からすると無理があると思う、やはり室町時代後半が無難と思う。
ワタのイラストは黄色と緑色のコントラストがすばらしい。

   東京に暮らす1928〜1936(昭和初期)   キャサリン・サンソム  岩波文庫
5章 百貨店にて
p90
座布団は5枚で1組になっています。柄が派手で美しいので、洋室にも是非おくべきです。座布団は季節によって使い分けます。冬むきの色は夏には暑苦しくて不快です。冬用の物は色が濃いだけでなく、中の真綿も厚くなっています。春になると、触った時に暑苦しくないように、中の真綿と綿の混合になり、色も涼しげなグレーとか紺と白の二色になります。次は布団です。これは日本で床の上に寝るときに使うマットレと上掛けのことで、昼間は押し入れにしまっておき、寝るときに出して床に敷きます。とても美しい柄の物があり、設備の良い旅館でそんなふとんに出会うと感激してしまいます。掛け布団も季節によって使い分けます。冬用は厚手で袖が付いたかいまきで、坐っているときに羽織ったり、冬の寒い朝、風呂に行くときにも着ていきます
イギリスの外交官夫人の日本滞在記。冬の座布団と春夏用の座布団の中のワタの記述は若干勘違いがあるように思われる。グリーンの部分を以下のように訂正すると意味が通じます。「座布団の側が麻の物になり」とすれば
誤解が無くなります。また付け加えれば春夏用はワタは若干薄手に入れてあります。
布団は旅行先などで実際に使っていたようですが、柄はほめていますが、その使用感が無いのが残念です。

 中高校生のための 朝鮮・韓国の歴史  岡百合子     平凡社
足利義満の時代
p163
朝鮮からの輸入品で最も重要だったのは木綿(もめん)だった。木綿の生産は高麗時代,元から綿の種を筆の中に隠して持ち帰り、栽培に成功したのがはじまりという。それまで絹や麻しかなく、貧しいものは紙の衣を用いていた日本にとって丈夫で防寒にも優れた木綿は画期的な繊維製品だった。日本が自ら栽培できるようになるまで朝鮮は、年々増大する日本の木綿への要求に頭の痛い思いをしなければならなかった。
日本で 木綿の栽培ができるようになる前、朝鮮側の状況が解って面白い。要求が大変だった理由がもう少し詳しくわかるといいのだが。

   暮らしのイギリス史  ルーシー・ワ―スリー著 NTT出版
 日経の書評記事より
 1970年代にデュベエと呼ばれる羽根布団の使用が広まり、シーツの上に乗せるだけでベッドメーキングが済む時代になる。この簡潔さこそが中世の藁を詰めた袋の上に外套をまとって寝ていた時代への回帰なのだ言う。・・・寝ることを「干し草を打つ」といった現在も使われている英語の表現の由来も興味深い・・・。
 西洋での羽根ふとん・羽毛布団の歴史も意外に新しいものなのか?
中世の藁(わら)を詰めた袋の上に寝る・・・は日本の昔と変わらない様子がうかがえて興味深い。

  2005年版ベスト・エッセイ集 片手の音      文春文庫





p60  貸しふんどしの話      岩原俊 友禅職人
参勤交代で江戸には独身の男が大勢いた。殿様についてきて江戸住まいを強いられる比較的身分の低い独身のお侍、・・・住まいは長屋、食いものは下男がなんとかしてくれても、問題は洗濯。下帯、ふんどしの洗濯までは下男にも頼めない、ちゃんと貸しふんどし屋というのがあった。3日・10日に一度という具合にふんどしがお屋敷までとどけられた。
 素材は木綿・・・ある程度使いまわして、くたびれる前に別の業者が買いに来る。集めたふんどしは小紋の型を置き、藍染めして、野良着に仕立て、北前船に乗せ、東北一円に売りさばくのだそうだ。
・・・大事につかわれ・・・それでもやがて着ることができなくなったぼろをまた買い集めてて江戸に運ぶ業者がいた。野良着ばかりでなく、江戸の庶民の普段着も布団皮も藍染めが多かったから、一か所に集められた。
 集められたぼろは水につけ、臼でつく。臼の底に沈殿した藍の成分に、にかわを混ぜてかためて青の顔料にした。
 藍の微粒子を抜かれた残りの木綿のぼろは浅草へんの紙業者にかわれて、屑屋が持ち込む紙くずと混ぜて漉きかえされ浅草紙に変わる。
これが大名家に持ち込まれちり紙に成り、長屋の落し紙になった。
 
すばらしい、徹底した江戸時代のリサイクルを教えてもらった。作者は藍のリサイクルについても書いている、膠で固めた物を藍棒と言って画家と染屋が使ったそうだ。

  明治大正史世相編     柳田国男        講談社学術文庫
p35 木綿より人絹まで
 諸国の農民が真剣にワタを栽培し始めたのは、江戸期も半ばを過ぎて、綿年貢の算法が定められた享保のわずか前からのことと察せられる。以前も少しずつはなお知られ、また相応にもてはやされていたものが、急にこのように生産が増加することになった理由は、恐らく紡織技工の進歩よりも、これもまた染色界の新展開に有った。
…葉藍耕作の最初の起りは不明であるが・・・・・ことに木綿において最も藍染めの特徴を発揮している・・・・。
p113寝間と木綿夜着
 古来の日本人の寝臥法(しんがほう)は絵に成っている上流のわずかな物を除く他、あまりに平凡なためかこれを記述した書物が無い。こういう晴れでない事柄は語るを避けた結果、一般に人に知られることを恥じているようだが、これがかえって舶来の寝床に近かったのみならず、かつは今までの住宅とも調和していたのである。木綿が冬の夜着となって、固有でまた自然な物は下品なように考えられて、何の改良をも加えられなかったのは残念である。寝間の大切なるのは秋の末からであった。ちょうど刈り入れた新藁を乾かしてよくすぐり、それをいっぱいに敷き詰めて、夜の床は香しくなる。その下に2尺3尺(75センチ〜115センチ)の深さまで,もみ殻を積んであるのが普通であったが、これも年ごとに古いものと入れ替えたのである。藁に寝ていた記憶がある者は今でもまだ決して少々ではないのだが、よほど素朴な人でないと、それがせんべい布団よりはるかによいものだということを、思い切って説く者が無いくらいに、今では綿の敷物が普通になってしまった。しかし残っている寝室の構造を見ても解るように、もとは決して貧乏人だけの,よんどころなしの辛抱ではなかったのである。
 綿のふとんが広まる前の状態が、漠然と想像はしていたが、初めて明らかになった。
やはり藁(わら)やもみ殻を床にしてその上に寝ていたのだ。しかもそれほど昔のことではないということも驚きだ。その寝床が進化することなく、ワタのふとんにかわっていったのはどんな訳があったのだろう。
ふとんの歴史がまた大きく私の中で変化しました。

  伊勢神宮と出雲大社の遷宮2013年に重なる
                  2012年11月17日 日本経済新聞  文化欄
遷宮刷新で得る永遠、「継続的継承性」に遷宮の意味を見る。
...昔は着物を洗い直したり、ふとんを打ち直したりした。面影を残しながら、のりかえ、もちかえ、あらたまるという日本的な編集文化の手法が遷宮の思想に端的に表現されている。
 ふとんを直して使う行為は日本人にとってはあたりまえなこと、それが日本文化と深い処でかかわっていたことを知った。それがまさか伊勢神宮とは。単純に誇らしく、うれしい。たしかに今の日本ではふとんの打ち直しぐらいにしかその面影を伝える物はないかもしれない。

  手仕事の日本     柳宗悦         岩波文庫 
p 126 静岡はおおきな紺屋が残ります。・・・夜具地に広く用いた大唐草模様の如き、見返すと立派なものですから、

p183 広島は山繭織を挙げねばなりません。・・・着尺にも夜具地にも用途が広く

p212 松山絣は主として夜具地であります。
 昭和15年前後の日本の手仕事の現状を述べたもの、現在となっては滅びた手仕事の遺書になっている。
しかし内容は現在のふとん屋稼業にとって、ここでいう手仕事にははるかに及ばないものであるが、示唆に富んでいた。
 
機械の発達が慾得のために利用され、良品を作ることが二の次になり、物が粗悪になった。手仕事の世界は人間の自由が保たれ、責任の道徳が遥かによく働いている。親切な着実な品を誇る気風がまだすたれていない。
機械の力に圧倒されて、正直な仕事が衰えてきた今日、手仕事の良き面を省みるべきだと思います。

 これらの言葉をかみしめたい。
それとは別に柳は我孫子市民にとっては昔の住民なので親しみを感じる人です。

  江戸の親子  父親が子供を育てた時代 太田素子  中公新書
p195
例えば次女の鈴は・・・嫁入りして以来・・・13回実家に帰って、そのつど一泊から長い時は一月以上逗留している。はじめのうちこそ「布織り」「機織」「縫物」「暮用手伝い」などの名目で帰っている。
p233
専業主婦の原型のような下級武士の妻の生活は、特に着物や布団の世話が近代以降と大きく異なっている。
下級武士家族の場合、布地はさすがに自ら織るより購入するものに成っているが、少ない布地を有効に活かすために季節ごとに綿入れにしたりほどいて袷にもどしたり、大人の物を子供のために縫い変えたり、縫物は家事の中でももっとも時間を要する仕事だった。

    武士の娘  杉本鉞子       ちくま文庫  







p18
召使たちが夜なべをする部屋は広く、半分は板敷になっており、そこここに筵が敷いてありました。糸を繰ったり、石臼をひいたり、・・・・
少し離れたところでいしが坐って、しきりに糸車を廻していました。
p19
いしはご座へ身をすべらして、自分の座布団を私にすすめました。いしは、私が糸車を廻すことが好きなのを知っていましたので、私を自分の前に坐らせ、大きな手を私の手に添えて、篠を握らせてくれるのでした。車を廻すと、指の先の篠から糸がするすると紡げてゆくのでしたが、あの柔らかい糸の感触を、いまだに忘れることができません。私の繰った糸は節だらけだったでしょうが、・・・
p114
その頃、私が一番困りましたのは、蒲団縫いでした。私は裁縫は好きでしたが、いつもいしやとしに手伝ってもらって、独力で仕上げたことはありませんでした。女は独力で蒲団が縫えなければならないことになっていましたので、母は私に人手を煩わさずに作ってみなさいと申しました。これは誰にもたやすいことではありませんが、丁寧に糸をひき、ひくり返して角々を整えようとしますと、綿がよってくるのでございます。
幾度も繰り返して、尚落ち着かず、とうとう、悲しくなって袖を濡らしたりいたしました。
p312
それからまた、夜具の問題がありました。日本の女は立派な夜具を作るばかりでなく、身分相応な物を作ることを主婦の誇りとしています。母は二人のためにとて、絹と麻の蒲団の布地をたきに託してくださいました。・・・数日、たきとすずは蒲団縫いをしてくれました。
 新潟・長岡藩の家老の娘であっても、身近に糸繰りや蒲団の仕立てがあった事におどろかされる。
身分に関係なく、日本の女性にとって糸繰りに代表される一連の作業が、ふとん関連の管理を含めて身近なものだたといえそうだ。現代社会のようにお金で解決できないものだったし、家族の着るものやふとんは自分たちで何とかするものだったようだ。当家も自家で仕立てをするお客様のために、打直した綿を配達する事が主であった時代がある。
50年程前は、女の人のすべてが蒲団の仕立てができた時代だった。
 それにしてもかつての日本人の心根や言葉遣いの美しさに心を洗われました。
ふとん関係の事を抜きに一読をお薦めしたい一冊です。

歴史の中で語られてこなかったこと  網野善彦 宮田登  洋泉社 歴史新書




p50 
私(網野)の母はやっていませんが、私の祖母と家内の母は完全にやっていました。私たちが結婚したときに家内の母が蚕を飼って糸を取ることからすべてを自分でやって、ウチオリという織物を織って布団の生地を作って、それに綿を入れて結婚祝いに贈ってくれたのです。もう今はすり切れてしまいましたが、つい最近までそういうことがあったわけです。

p51
宮田 絹は高級品で、綿は庶民のもの、というイメージがありますが、本当で    しょうか。
網野 私はそれは嘘だと思います。
宮田 網野さんは絹は昔から高級品ではなく庶民も着ていた、というのが持論    でしたね。柳田さんの『木綿以前』の考えを踏襲していますと定説の    とおりとなる。
網野 木綿の問題ですね。永原慶二さんがそれに乗って『新木綿以前のこと』    をお書きになって、定説が増幅されていますね。しかし、14世紀の    ごく初頭の百姓の財産目録には「絹小袖」が出てきます。 
絹を庶民も着ていたことがある。という説はうなずける、自前の物もあったと考えるのは自然な考えかもしれない。繊維の太さを考えると木綿の方が手間がかからなかったと思えるので、いずれにしろ木綿の方が一般的だったし、活動的だったと思われる。仕事着には絹はむいていないと思える。

  日本残酷物語  貧しき人々の群れ       平凡社  ライブラリー






p210
明治・昭和の飢饉
『寒風山麓農民日録』によれば、男鹿半島では南京袋を幾枚か縫い合わせて大きな袋をつくり、このなかにシベ(稲の葉の枯れたもの)を入れてふとんにした。それまでの藁の寝具に比べると、シベふとんはあたたかで大変よろこばれた。
p352
機をおる女たち
 子供の時代が過ぎると、西日本の木綿織地帯では女は多く木綿織りにいそしみはげんだ。東日本の麻、からむしなどの自給を主としたものとちがって、木綿が商品として織られ、しかもそれらの全てが人力にたよらなければならぬところから、女たちは朝から夜ふけまで糸紡ぎ機織りに追われることが多かった。そして過労と睡眠不足のために、木綿ひきのような辛気な仕事には睡魔に悩まされることが多かったため、木綿ひき唄には眠気について歌ったものが少なくない。
p416
八王子周辺の工女
 私は14歳のときが織りはじめで(明治40年頃)五日市から木綿の夜具地の賃機がきたので、二反15銭、安いのは一反3銭で織りました。1日2反から2反半織りました。
 藁とシベの区別がはっきりわからない。いずれにしろ充分にワタが無かった時代は藁がふとんの中身として利用されていたのは想像がつく。
 とにかく女性の繊維にかかわる仕事が、朝から晩まで、多かったことが解る。

  きもの草子       田中優子     ちくま文庫      





p79
単(ひとえ)
江戸時代では4月1日から5月4日まで、つまり夏至ごろまでは、単ではなく袷(あわせ)を着る時期なのである。ならば旧4月1日の衣替えとは、何をどうする日なのかというと、綿入れの着物から綿を抜いて、ただの袷ににする日なのだ。それで、4月の季語に「わたぬき」という言葉がある。
p81
綿入れのある時代は、着物一枚で一年間過ごす事が出来た。旧5月5日から秋が来る旧7月までは単や薄物で過ごし、旧7月あるいは8月からはその着物に裏を付けて袷で過ごし、旧10月1日の衣替えで二枚の布の間に綿を入れる。あとの半年は、旧3月いっぱいまで綿入れで暮らし、旧4月1日に綿を抜いて袷にし、5月4日に裏を取って単にする。
p122
着物というものは……かっては簡単に捨てるものではなく、染め直し、作り直し、時には継ぎを当て、一生のつき合いをするものだった。着物はほどくと何枚かの長方形の布になる。……
下着にもなり布団皮にもなり袋にもなるのである。
「綿抜き」が季語、というのが面白い。逆に「綿入れ」はないのだろうか。
着物が使い古され、ふとんとして利用されるとあります。最近、このような注文が多くなったので、着物を知らない事もあり、この本の購入となりました。
ただ布団皮に皮の字が使われているのが気になりました。当家では側を使っています。大げさな言い方になりますが、お客様の注文で混乱することが多く、用語の定義などがきちんとされていない、我が業界を残念に思う事があります。


旗本御家人 驚きの幕臣社会の真実      氏家幹人    洋泉社 歴史新書
p238
小納戸役のお手本
 将軍の月代を剃る当番のとき、忠香は朝寝坊の将軍の寝所に入り、夜具を剥いで将軍を起こし、月代を剃った。

忠香が初めて宿直当番を務めた日の事である。通常は自宅から寝具などを入れた葛籠(つづら)が届き・・・・。 
 下級武士の米日記に宿直のたびに寝具を運ぶとあったが、江戸の幕府でも同じシステムを採用していたことが面白い。寝具に関しては役所が用意するものではなかった事が解る。
大阪船場 おかみの才覚 「ごりょんさん」の日記を読む  荒木康代   平凡社新書
p97
1月から2月にかけての久子の生活で最も多くの時間を占めているのは、このような「裁ち物」 布地を裁断する事 「つもり物」 縫う前に見積もって布地にしるしをつけること 「しきしあて」 布地の弱った部分に裏から布を当てる事といった仕立て物関係だった。当時男性の洋装は一般化していたものの、自宅では着物が多く、またほとんどの女性は日常的に着物の生活だった。そのため当時の女性にとって裁縫にかける時間はきわめて多かった。
ふとんに関する記述はなかった。資料にあってもこの作者の関心をひかなかったのか。ただp71に昭和2年のそごうの新聞広告が載っている。着物関係が3品ふとんが1品『ふとん特別大兼売』その下で読めたのものが 本秩父夜具(3枚)30円(42円の品)となっている。本文とは関係ないが新聞の広告にふとんが出ているのが目を引いた。当時の大卒の初任給が50円〜100円とあるので30円は高額だ。


     幕末の水戸藩            山川菊栄    岩波文庫   
p211
 これは実際の話だが、やはり青山の親戚のある家で、子供が多いのに寒中かけぶとんがうすくてよく眠れないので、張り板をふとんの上にのせて寝たという話がある。
この巻は人物関係が主な内容で日常生活の記述は少ない。
 水戸は周辺に比べると寒い。水戸藩士が貧乏であった事の証として語られている。

下級武士の米日記 桑名・柏崎の仕事と暮らし  加藤淳子   平凡社新書
p100 天保の頃
 年々成長し、洗い替えの欠かせぬ子供らの衣料は特に頭痛の種で、冬の到来には袷(あわせ)を綿入れに変え、春にはその逆にその綿を抜くやりくりをする。
p156 弘化4年 柏崎は大地震に見舞われる
 衣類を付けたまま丸寝するように言いつけたのは、裸で寝る習慣だったからだ。
p183
 衣類の洗濯なら「拵え(こしら)」の表現が目につく。縫い目をほどき、元の反物と同形の長四角の縫い合わせるまでの過程を経てから洗濯に入る。洗濯の後の糊つけは、板に貼りつけるか、しんし(針のついた竹ひご)で布を引っ張って固定するかして行い、乾燥後、仕立て直しの裁縫をする。
 衣類を新調するなら、まず綿を入手、糸繰り、機織り、裁ち縫いの工程を経る。
p195
 宿直に子供が共に泊るのは役所が寝具を用意せず、そのたびに家から運ぶと自宅分が不足するからであった。
p116
 すり切れた敷布団(もともとひど工面の古手)に「べたと」つぎを当て・・・慎ましい生活ぶりだ。
p112
片山理助は・・・石高百石であったが家族が多くて苦しく、その「おばば様」に葛布団がなくてお気の毒と、平大夫の妻、おますが、藁の芯をすぐり、糸,布の屑も一緒につめたそれを拵えて届けたことがあった。







『武家の女性』の記述とかさなることが多い。裸で寝た事、役所にふとんを運んで宿直した事が新しい発見だ。
ふとんの記述が1か所あった。ひど工面[名詞](スル)無理をして金品の都合をつけること。ひどさんだん。
古手(ふるて)は中古品で誰かが使った物を意味する。
葛布団とあるが葛と屑は使い分けているようなので、何か特別な布団だったのか。あるいは体裁の為か。
これは想像だがワタが高価だったので芯として藁・糸・布の屑などを入れて外側をワタでくるんで敷き布団にしたのではないかと思われます。私も古い布団でそんな仕立てをした物を見たことがあります。

  土   長塚節   新潮文庫
 P32
 以前はこの土地でも綿が採れたので、夜なべには女が皆竹わくで糸を引いた。綿打ち弓でびんびんとほかした綿は箸のような棒を芯にして蝋燭ぐらいの大きさにくるくると丸める。それがまるめである。このまるめから不器用な百姓の手が自在に糸を引いた。この頃では綿がすっかり採れなくなったので、まるめ箱もすすけたまま稀に保存されているのも糸くずや布の切端が入れてある位に過ぎないのである。
明治43年の作、場所は茨城県の鬼怒川 西岸、
明治29年に綿花の輸入が自由化された事が原因と思われるが、『採れなくなった』と表現されているのが面白い。綿に関しての作業は夜なべが多かった事が分かる。
ふとんについての記述が無いのが残念だった。
茨城南西部の方言、我が父の実家が近くなので、聞き覚えのある懐かしい会話がつづられている。しかし馴染みのない人には読むのが苦痛な小説かもしれない。

歴史のなかの邂逅 司馬遼太郎 NO4 中公文庫
P186 
  江戸期の庶民の世界を見ると、組織論的な組織であると言える物が存外ある。
 例えば江戸初期以後、特に近畿を中心に盛んになった商品作物のうち、棉作などは一個の企業体に農業と工業的要素と商業性が噛み合ってひとびとの労働を多様に色分けし、機能化している。明治期の資本主義への転換は、江戸期の士分階級が知恵遅れになっている状況のなかで、かれらが土民だと思っていた階層の中で無意識のうちに準備されていたといっていい。
偶然 銀の匙 を読んだばかりだったので、納得してしまった。

銀の匙   中勘助   角川文庫 
P35 作者の幼いころの思い出の一つとして

 かけ蒲団のひとつは菊の模様、ひとつは更紗の海老色がかった地に菊いただきや木の枝などついた舶来らしいものだったが、その日向くさいのがよくて、ふっくらしたところへうつ伏せに顔をうずめてにおいをかぐのが好きであった。 

 P175 世話をしてくれる近所のばあやの昔語りとして

 ばあやは親がわりの兄がある博打うちの親分のところへ嫁にゆけというのをきかなかったため生綿(きわた)を百めほどあてがわれて これでどうなりとひとりでやれ といわれた。で、それを糸にして問屋へ持っていっては生綿とひきかえ、また糸にしてはひきかえしたその賃銭がいくらかとかで、そのころの米の代がいくらかとかで、差しひきいくらかの銭がようやく残った。それで着物をこしらえて縫っているところを兄に見つけられて 親代わりに兄に話もなしにそんな物を買った とひどくしかれれみちみち機(はた)でも織って善光寺へ詣るつもりでうかうかと家を出てしまった。そのときばあやは十七だった。





 銀の匙の作者が我孫子市に住んでいたことがあり、興味が尽きない。
再読したところ上記の箇所を発見した。


この作品が明治20〜30年代を背景にしていると考えると、ばあやさんが江戸時代の終わりのころの話と考えられるだろう。
この場合の生綿は種を取り除いたワタの繊維のかたまり、百匁は400gほどであるから、それ程多くない量を糸に紡ぐ労働が 問屋を通じて行われていた。しかもその労働の結果、着物が買えるほどの対価になったことがうかがえて興味深い。

悪代官は実はヒーローだった・江戸の歴史 古川愛哲 講談社
 P162以下に次のような話が載っている。

安政東海地震での東奔西走
嘉永7年(1854年)11月4日東海から南海道にかけて突然激震が襲った。次いで津波があり・・・・林代官は11日救援に全面的に乗り出した。代官自身が管内の村々を廻って、50両の金と救援米・籾の貸し渡しをそれぞれの村で行う毎日となる。28日になると寒さも厳しくなり、代官は金と救援米のみならず、70歳以上の年寄りには綿を渡しながら村を廻った。これは翌安政2年(1855年)まで続いた。幕府の許可などとらず、・・・「天災なのだから、気落ちせぬように」 と励まして歩いたのである。
 綿の用途が記されていないが、寒さをしのぐためのワタ入れ(着物の表と裏の間に綿を薄くして入れる)の材料として配られたのだろうと想像する。もう一つ綿の持つ癒しの効果もあったかも知れない。
あるいは糸にして収入の足しにしたのかもしれない。
時代が時代だったので困窮し困ったことだろう、米・金の次に綿が救済品の中に登場し思わず、さもありなんと思った。

頭のいい 江戸のエコ生活  菅野俊輔  青春出版 講談社
江戸庶民の暮らし方の解説に損料屋(レンタルショップ)で布団を借りる場面の図があった。
寒い季節には炬燵・火鉢も借りられるとある。
 リサイクルビジネスの解説に京都・大阪では自分の家でワタを繰る事があり、
江戸にはいない、綿核(綿実)を買う行商人がいた。大量に集めて油を絞っていた。

 或る朝  志賀直哉全集 
 祖母は腰のところに敷く羊の皮をたたんでから、大きい敷蒲団をたたもうとして息をはずませて居る。・・・・・中略・・・・彼は毎朝のように自身の寝床をたたみだした。大夜着から中の夜着、それから小夜着をたたもうとする時、彼は不意に「ええ」と思って、今祖母がそこにはおったように自分もその小夜着をはおった。彼は枕元に揃えてあった着物に着かえた。
明治41年1月の作品、掛け布団が夜着(かいまき)だったことがわかる。しかも大中小と3枚も掛けていた。

「戦後農業技術発達史」「特産農作物」
その中の収穫技術の章に次のような記述がありました。

『発芽最低地温は12℃以上 』

『わたの開花は7月下旬。8月25日ごろまでに開花した物からわたが取れる』

また昭和18年のワタの収穫統計の記録から、栽培の北限が福島と新潟を結ぶ線にあることがわかりました。戦争中なのでワタの栽培が復活し、茨城県が最も栽培されていたことがわかりました。またこの頃までワタの品種改良がなされ、農林2号・むさしわたなどが南関東では奨励されていたこともわかりました。


 わが住む村  山川菊栄 岩波文庫 
武家の女性」の作者が神奈川県に住み、聞き集めたもの。その中から寝具に関係していることを抜書きしてみました。

 「武家の女性」の文中にもありますが、作者が花といっている物は正確には実から出てきたワタの繊維の塊をいっています。この本を読んでいて気付きました。

P110 綿畑と狐のゆくえ
昔は家族の人数次第で、三畝、五畝、あるいは一反ぐらいの綿を作らない家はありませんでした。綿の花は、一面緑の夏の野に、雪の咲いた趣でした。女たちは、大きなしょい籠をしょって、ようやく柔かくなった秋の日ざしの中に、綿の花をつみに行きます。早生の花は小さく、晩生の花はおおきいのでした。私は明治30年ごろ、小学校の二年生ぐらいのとき、教科書の中に、一面白い花に覆われた綿畑に半身埋もれて、手ぬぐいを姉さまかぶりにした襷がけの娘が、左手にかかえた大きな籠の中に花をつみ入れている挿絵のあったのを思い出します。・・・・この辺ばかりでなく、そのころはまだ、日本中いたる処に、そういう風景が見られたのでした。一反歩もあれば、2、3日は花摘みに通ったものだそうです。

 さて摘んできた綿は、綿屋を呼んで打たせ、それを篠竹を削った・・・篠に捲き、・・・夜なべに糸をくるようになります。・・・

P117
百石取りの熊本藩士の夫人は、薄い木綿の座ぶとんを客用に備えておくようになったのは明治二十四、五年で、世間もそんなものだったといわれました。また江戸の旗本の娘である或る名流の夫人は、母君が非常に厳格な人で、重ねぶとんはおごりの沙汰で決してするものではないといわれて育ったもので、・・・昔のままに敷ぶとんを重ねたことはないということです。
 綿が国内の生産に頼り、したがって潤沢でなかった江戸時代および明治中期までは都会でも大体こんなふうだったとみえます・・・。
明治30年ごろ、小学校2年生、教科書、そんなヒントに誘われ、この教科書の挿絵探しをしています。広島大学の教科書を集めたHPにたどり着いて、探し回ったのですが見つかりません。この挿絵が見つかると感動物なのにと思っています。ただ副次的に、ワタについてかかれた箇所、ふとんに寝ている挿絵を見つけました。これは収穫でした。
綿屋を呼んで打たせ・・・・この綿屋は現在の布団屋とは異なります。大きな弓を持ち、綿をその弦ではじき繊維を一定の方向にそろえる(打つ)のを仕事にしていた人々がいました。

カムイ伝 白土三平  小学館
友人のイチローさんから「カムイ伝」 白土三平にワタ の事が描かれていることを教えてもらいました。  20年前に読んだはずなのに、全く気がつきませんでした(その時は転職して現職に就いたばかり)。  改めて見てみると、 ワタの栽培から収穫・運搬までが鮮やかに描かれていました。痒いところに手が届いた内容に、感激しました。   

 小学館文庫 白土三平 bT bV bW bX bP4。

干したいわしのキンピ(ほしか)が描かれています。ワタは繰って(種子を取り除く)出荷したようですので、重さを量った後いきなり荷造りされたようになっていますが、ここに綿繰りの作業があったのではないかと思います。綿実油が江戸時代に売られていたことが知られていますので、大量に集められて搾油されていたと思われます。その後糸への加工そして機織りの加工と続いたと思われます。この後の作業が劇画で表現されていればなおのこと、ワタの歴史が身近になったのではないかと思いました。

武家の女性  山川菊栄 岩波文庫
友人の川村さんから、茨城県の水戸近郊。江戸末期のワタ及び寝具の記述がある本の紹介を受けました。
P26
朝暗いうちに起きてふとんをほどき、洗い張りをすませて、仕立て直し、その夜はきれいになったのを敷いて寝るという風で、仕事はテキパキと片付けました。
P52
着物といえばもめんに限られ、そのもめんを作る綿も他の農産物同様原則として領内の自給でした。といっても綿は家庭では作らず、農家から買い入れました。那珂川べりのカラリとした平野は、夏になると一面、白い綿の花におおわれ、その中を日によって蒼く、またうす黄色く那 珂川が悠々とながれ、・・・・・狭い水戸領では何物も豊富とはいかず、綿の生産額も少ない上に、それをここの家庭で糸に作り、更に染めて織るという手数は大変なことで、したがって着物 一枚つくるということはなかなか容易なことではありませんでした。
P74
お客といえば、お客に座ぶとんを出すこともなく、座ぶとんというものは知りませんでした。主人の書斎に薄いのが一枚あるきり、家族は座ぶとんをもたず、ないのですからお客に出すことはなく、よそへいっても出たことがありません。 
 幕末の水戸の中級武士の家庭の話です。綿花を農家から買い, 糸にして反物を織ったことがわかります。関東地方にワタ畑が広がっていたことがわかりました。手入れの一端もわかりました。たぶん現在のようにワタを機械にかけることは出来なかったので、ワタを抜き取り、側だけ洗濯してそっくり入れなおしたのだと思います。また座布団が無かったというのはビックリしました。ふとんがいかに貴重だったかをまた確認しました。

ふるさとの生活   宮本常一    講談社学術文庫
この本の中の 7章 ひらけゆく村 2 衣服のうつりかわり 

この章にふとんのことが記載されていました。この本は昭和25年ごろに書かれています。文中の今とはその頃の今です。

ヨギとふとん

ふとんが用いられるようになったのも、新しいことです。それはワタがいくらでも手に入るようになってきてからのことです。今でも、田舎をあるいていると、イロリの火で背中をあぶりつつねるおばあさんたちがありますが、もとは、眠るといっても、少しものびのびしたものではありませんでした。着物を何枚かかさねて、ねている上にかけるとか、またみのなどを着て寝ることもありました。

 明治の初めごろ、三河(愛知県)の貧しい農家では、みのを着てねたということがかいてありますし、秋田県の山中では、藻をこものように織ったのを着てねたということが、菅江真澄の日記にもでております。しかし、青森県では、昭和十二年ごろまで用いていたという話をきいたことがあります。そまつなネドコだったわけです。

 岩手県の山中では、古くてぼろぼろになった着物を、いろいろにつぎあわせ、それを何枚もかさねて着てねるとのことですが、これを「ヨブスマ」といっています。今でも「夜着」といって、そでのあるワタ入れを着ている地方がありますが、そのなごりと思われます。

 昔の人は、小さくまるくなってねたようです。大きく大の字になってねると、たましいが夜のあいだにぬけ出してゆくと考えました。だから、ふとんができても、はじめは小さいものでした。夜のびのびと寝ることのできるようになったのは、ごく新しいことです。そして、ワタは人々にあかるい、あたたかい生活をもたらしたのでした。

 徳川時代になると、カイコもたくさんかわれるようになりましたが、農村で絹の着物が着られるようになったのは、明治時代以後のことです。



小説    徳川家康    山岡荘八
 お客様に《小説 野菊の墓》の話をしたところ、この本に綿についての記述があることをお教えいただきました。綿の歴史にも触れているので少し長いのですが、書き出してみたいと思います。

 華陽院は・・・言ったあとですぐ足元にすくすくと育ってきている綿を見やり「その頃の女たちもせっせと蚕を飼ったに違いない。それから絹の他に荒妙の御衣を作る麻も献じた。そして今お屋敷さまはこうして綿をひろめようとごくろうなさる」

 お屋敷というのは城内の人々がいつからともなく於大(おだい)に献じた呼び方だった。・・・・

 今では華陽院よりむしろ於大の方がみんなに慕われだしている。その大きな原因の一つは・・・曲輪下の畑に種子をおろしている綿にあった。

 三河では綿は以前福地村の天竹に天竺人が漂流して来て一度ひろめ、わざわざ綿神にまつられたほどであったが、その後いつか種子をなくしてほろんでいる。

その綿の種を携えて来て民百姓にこれをひろめ松平家の徳を永く残そうという。・・・

 この綿の種子をまず城内の女の手で殖やそうと言い出して、大奥から重臣の女房たちにまで分けさせたのは華陽院であった。今年の内に出来るだけ多くの種子を取り、来年近くの百姓たちに、その作り方を添えて分けよう。作り方を添えなければ、再び種子の消えてしまう恐れがある。と、いうよりも大奥で手ずから植えた種子と成ったら、これを頂く百姓たちへのひびきも違う。

「麻よりも柔かく、紙子よりも丈夫で、蚕のように忙しく手は取られぬ。桑にそのまま繭が実ると思えば良い」・・・・。

小説の始めの部分にあります。天竺人が漂流云々の話は綿の歴史を語られる時必ず出てくる話です。神社も実在するそうです。この時代の注目された作物だったことが良くわかります。野菊の墓同様に小説の内容を充実させるための小道具として利用されています。 

野菊の墓 伊藤左千夫 

新聞に野菊の墓の作品紹介が載りました。何と探していたワタに付いての記述がありました。昔読んだはずなのに、こんな身近な作品にあったとは。それによると二人にとって重要な場面が綿を摘むことだったとのこと。さっそく熟読しました。

 以下本文よりワタについての記述を抜書きしました。

 陰暦の9月13日(現在の10月) 民子はぼくを手伝いとして山畑の綿を採ってくることになった。

 二人が一斗笊一個ずつを持ち、僕が別に番ニョ片籠と天秤とを肩にして出掛ける。

 畑が八反…三方林で囲まれ、南が開いてよその畑と続いている。北が高く南が低い傾斜になっている。綿は末にはなっているが、風が吹いたら溢れるかと思うほど綿はえんでいる。点々として畑じゅう白くなっている、その綿に朝日がさしているとまぶしいように綺麗だ。「まアよくえんでること。今日採りにきてよい事しました」民子は女だけに綿の綺麗にえんでるのを見て嬉しそうにそういっ た。

 …一心に採って3時間ばかりの間に7分通り片づけてしまった。

 …秋の日の足の短さ、日はようやく傾きそめる。さアとの掛け声で綿もぎにかかる。午後の分は僅かであったから1時間半ばかりでもぎ終えた。何やかやそれぞれまとめて番ニョに乗せ、二人で差しあいにかつぐ。

   以上

  これだけですが明治時代の関東地方のワタのことが非常によく解ります。

    10月に収穫したこと。

    8反の畑を二人で4時間半かけて採ったこと。

    二人で担がないと運べないほど採ったこと。

  しかし私には解らないのが次のことです。

    綿がえんでいる  →  どのように成っていることか。綿を栽培しなくなり失った言葉?

    番ニョ片籠     →  どのくらいの大きさの籠か

  長い間、関東の綿栽培の様子を記述した物がないかと捜していたのですが、ようやくめぐり  あいました。感激です。この採った綿をどうしたのかの記述が無いのが残念です。

綿がえんでるの意味が解りました。         H18年7月

「えんでる」をグーグルで検索すると次の2つのHPが検索されます。 

昔の茨城弁集…えんでる…熟して裂けている

秩父地方の言葉…動詞…栗のいが・アケビの実・ざくろの実が熟して割れること。

高校の同級生 川村さんから教えていただきました。有難うございました。    



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